2020年2月 メッセージ「ペテロからのメッセージ」

2020年2月  講師:石井田 直二

使徒行伝の学びの中で、2月29日の礼拝では、3:17~3:26を学びました。

1)誰がイエスを殺したのか

Act3:17さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。

Act3:18神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。

Act3:19だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

ペテロはエルサレムにいたユダヤ人たちに「あなたがたがイエスを殺した」と何度も言っています。しかもそれは彼のメッセージの核心です。長年にわたり、クリスチャンたちはユダヤ人に「お前たちはイエスを殺した」と間違った態度で言い続けて来たので、その反動でクリスチャンもメシアニック・ジューも「イエスを殺したのはあの場に居合わせた一部のユダヤ人であって、現在のユダヤ人に責任は無い」などという主張をしがちですが、それはあまり正しいことだとは思えません。

もし、イエスが「罪祭」(罪のための犠牲)であるとするなら、それはレビ記に従って罪人が自ら殺さなければならないからです。キリストの血の贖いを受けようとする者は、自らキリストを殺したと告白しなければなりません。その点を、ペテロは非常に明確に述べています。

レビ記によれば、民族の罪を贖う場合は、祭司が民を代表して犠牲を殺します。ですから、キリストは「祭司の民」によって殺される必要がありました。私たちはユダヤ人がしたことに「加わった」と考える必要があります。

そして、ユダヤ人たちが悔い改めるべき理由を、ペテロは続けて語っています。

2)万物更新の時はいつ来るか

Act3:20それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。

Act3:21このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。

この2つの節はやや難解です。「慰めの時」あるいは「万物更新の時」は、それぞれアナプスクシス、アポカタスシスという言葉が使われていて、とにかく、問題だらけのこの世の中に平安が与えられ、さらに神の主権が回復されて「御心が天になるように地にもなる」(主の祈り)時のことを意味します。

問題は、それが「いつ」来るのか、です。この口語訳を読むと、20節は「みんなが悔改めると、その時に慰めの時が来て、神がキリストをつかわして下さるでしょう」という未来形です。ほとんどの訳がここは未来形に訳しています。

そして21節はどうでしょうか。口語訳は「天にとどめておかれねばならなかった」と過去形で述べています。これだと「今まで天にとどめられていたキリストは、いよいよ万物更新の時が来たので、地上に降りてこられた」という意味になります。しかし、大半の訳は「万物更新の時」がまだ来ていないという前提で翻訳しているのです。

さて、「慰めの時」あるいは「万物更新の時」は、もう来たのでしょうか、それともまだ来ていないのでしょうか。実は、これらの動詞の時制は「アオリスト」という独特の時制で、未来とも過去とも解せる微妙なニュアンスがあるのです。

私たちはペテロがこれを語ってからすでに二千年の時が経過していて、キリストの初降臨と再臨が全く別の出来事であると考えて読んでいます。ですから、「慰めの時」あるいは「万物更新の時」は、この当時に成就したのか、それとも二千年以上後に今から成就するのか、と二分法で考えるのですが、ペテロはそうは考えていませんでした。その日の夕方にでも主イエスが帰って「万物を更新」して下さると思っていたのです。

ですから、彼は「慰めの時」あるいは「万物更新の時」は、今まさに来ていると考えていたのでしょう。ですから19~20節は「悔い改めよ。そうすれば、慰めの時がきてキリストが来て下さる」というよりも、むしろ「悔い改めよ。もう、慰めの時がきてキリストが来ているのだから」と読むべきではないでしょうか。そう考えると、次の節の意味も見えてきます。

3)その預言者はすでに来ている

Act3:22モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。

Act3:23彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。(申命記18:15)

この「ひとりの預言者」がキリストを指していることは議論の余地がありません。キリストはすでに来られて、ユダヤ人に対して語られたのでした。ユダヤ人たちはそれに聞きしたがったでしょうか。いいえ。聞きしたがわなかったばかりか、十字架につけて殺してしまったのです。これは大変なことです。ここまで聞いたユダヤ人たちは、真っ青になったに違いありません。

私たち日本人が、メシアが来てもわからないのは、まだ言い訳ができることです。だいたい、メシアなどという概念も知らず、旧約聖書も読んだことが無いのですから、わかるはずがありません。でも、ユダヤ人たちは、メシアが来られることをよく知って待ち望んでいました。そして、その方を受け入れなければ大変なことになることも知っていたのです。ところが、何としたことか、彼らはそれを見落としてしまいました。これは大失策です。

そこで、パウロは言葉を続けています。

4)アブラハム契約の成就

Act3:24サムエルをはじめ、その後つづいて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した。

Act3:25あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。

Act3:26神がまずあなたがたのために、その僕(御子イエス)を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」。

ペテロの論旨はこうです。アブラハム契約に従って、キリストを送って、まずユダヤ人を悪から立ち直らせて祝福にあずからせ、さらに、そのユダヤ人が地上の諸民族を祝福するのが神のご計画なのだと。だから悔改めて、キリストを受け入れなさい、というわけです。これを聞いて信じた男の数が5千人になったと、4:4には記されています。2:41で3千人だったのですから、2千人も増えたのです。

これはすごいリバイバルです。ペテロはキリストが復活して昇天するのをその目で見て、そして自ら聖霊を注がれ、次々に奇跡が起こり、2回ほどメッセージを語っただけで何と5千人が救われたのでした。こんなすごいことを目の当たりにした彼は、そのまますぐに「イスラエル全家の救い」が成就すると、心に信じて疑わなかったと思います。

5)神の遠大なご計画

しかし、幸か不幸か、物事はそう簡単には進まなかったのです。あんなに熱心にイエスを受け入れたユダヤ人たちは、ある時点からパッタリと信じなくなって行き、福音は新しい使徒パウロの活動で異邦人に向けて広がって行ったのです。使徒行伝を書いたルカは、異邦人だと言われています。彼は、最初は「ユダヤ人専用」だった福音が、いかにしてユダヤ人から異邦人に広がって行ったかを、使徒行伝を通じて描いているのです。

今日の個所は、福音が異邦人に伝わるという、大きなドラマの「序曲」です。まだペテロはその流れを知りません。再臨が二千年も遅れるというのも、たぶんルカが想定していなかったことでした。

しかしペテロは、再臨が遅れている理由を後に理解したようで、ペテロ3:9でそれを説明しています。それは主が「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられる」のだと。

パウロはさらに、異邦人にはユダヤ人に「ねたみを起こさせる」(ローマ11:11)という重大な使命があると指摘しています。ペテロが最初に期待していたとおりに、何週間かで再臨があったとしたら、日本の私たちにはチャンスは無かったかもしれません。でも神は大きなあわれみによって、ユダヤ人を二千年も待たせて、私たちの悔改めを待って下さったのです。でも、最後の時が迫っています。

聖書が少しわかってくると、まるで自分が何でも知っているような気になりがちですが、かの大使徒たちでさえ、時には神のなさる事に驚かされていました。私たちは神の大いなるあわれみに感謝すると共に、自分の知っていることがごく一部に過ぎないことを知らなければなりません。