2019年8月メッセージ「さあ、みんなで主の山に登ろう」

2019年8月24日  「さあ、みんなで主の山に登ろう」 講師:石井田 直二

イザヤ書2章 2節~4節

2:2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、

2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。

2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

■重要な啓示は繰り返される

この聖句は、ほとんど同じ内容でミカ書4章に繰り返されています。どちらかが、どちらかを引用したというのが人間の考え方ですが、ヨセフ・シュラム師は「重要な啓示なので、神が念のため2人の預言者に同じ啓示をおあたえになった」と語っていました。とにかく、これが重要な啓示であることは確かです。

これは終末預言の一つで、いくつかの象徴的な言葉が使われていますので、まずは用語解説から始めましょう。「終りの日」は、「主の日」などの言葉で語られる、未来の特定の日(または時代)です。それが「主の日」と書かれているには、それまでが「人間の日」だからです。それまでは人間が好きなことをしていて、主はじっと我慢をしておられるのですが、その主の日が来ると、神はご自分の好きなようにされ、それまで好き勝手なことをしていた人間は「終わり」になります。だから「終わりの日」なのであって、そこで時間が終わるわけではありません。神は永遠のお方です。

「主の家の山」は、エルサレム全体、あるいは神殿の丘の別名です。文字通り、エルサレムは標高800mほどであり、山の上にあるのですが、それ以上に権威を象徴する表現です。日本では東京行きの列車を「上り」と言いますが、それと原理は同じです。ヘブライ語でもエルサレムに行くことを「アリヤー」(上る)と言います。「ヤコブの神の家」もエルサレムの神殿を意味します。「イスラエル」はヤコブの別名なので、ここでは詩的表現として「ヤコブ」が使われています。

イザヤやミカがこの預言をした頃、エルサレムは単なる地方都市でした。それだけではありません。当時、エルサレムは危機に瀕していた(歴代志下26)のです。ウジヤ王は高慢になったため、重い皮膚病ツァラアトにかかり、息子ヨタムが政治を行っていました。落日のエルサレムでは、汚職、金権、偶像礼拝が横行していたのです。

それでも、未来のある日にはエルサレムが諸国の中で尊敬を集めるのだ、と預言者たちは語ります。それが神のご計画なのです。この預言が語られて2700年、今なおエルサレムは本来の地位にありません。まだ誰の町かさえわからず、エルサレムがイスラエルの首都だと言っただけで大問題なのです。

しかし、黙示録の最後には、輝くエルサレムが天から下って来ると預言されています。イザヤやミカは、エルサレムが高くなると預言し、ヨハネは上から降って来ると預言するのですが、これはどちらも同じことを言っています。神は、エルサレムを通じてご計画を成就し、栄光を現わされます。

■諸国民がエルサレムに行くのは、アブラハム契約の成就

「さあみんなで主の山に登ろう」は賛美歌になっています。日本語の歌詞もあります。その次の「律法はシオンから出、神の言葉はエルサレムから」もヘブライ語の賛美歌で「キミツィオン・テツェートーラー」と言い、ユダヤ人たちがシナゴグでよく歌っています。諸国民とユダヤ人たちが、それぞれ適切な箇所を賛美歌にしているのは興味深いです。

主の言葉を聞くために、諸国民がエルサレムに集まってくるのは、創世記12章のアブラハム契約で示された神の永遠のご計画です。ユダヤ人は一時的に頑なにされていますが、それは永遠にそうなっているわけではありません。ユダヤ人たちが目覚めると、諸国民が主の言葉を聞くためにエルサレムに上って来ることになるはずなのです。

でも、今の状態を考えてみて下さい。多くのクリスチャンが今、ユダヤ人に主の言葉を伝えようとしています。でも、これは一時的な異常現象なのです。パウロは、ローマ書11章で、異邦人からユダヤ人に福音が伝えることを預言しました。しかし、それは永遠の基本原則ではありません。ユダヤ人たちが目覚め、王なるキリストがエルサレムから支配されると、再びエルサレムから主の言葉が出るのです。

私たちが始めた「アジア・メシアニック・フォーラム」も、この預言の成就をビジョンとしています。イスラエル、エルサレム「主の山」から来る講師たちのメッセージを聞きに、諸国民が集まって来るのです。

■「剣を鋤に」は平和の合言葉

その後にあるのは、主が諸国の間で仲裁をされる、という預言です。今の韓国と日本の状況を見て下さい。どちらも国内世論のおかげで、関係改善ができない状態になっています。昔は米国が仲裁してくれたので関係が維持できていましたが、今や、トランプ政権はそんな事には口を出さない主義のようで、仲裁者がいないとエスカレートするばかりで最終的に武力衝突まで行きかねません。米国とイランもそうで、誰も責任ある仲裁ができないので、とても危ないことになっているのです。

しかし、王の王であるキリストが諸国を支配すれば、誰もが従わざるを得ません。彼が鉄の杖を持って治めるので、誰も逆らえないからです。ですから、すでに王の王であるキリストの支配に服しているクリスチャンの間には平和があるのです。終りの日には、それが全人類に及びます。

そこで人々は「剣を鋤に打ちかえる」とイザヤは預言します。これはとても有名な言葉で、国連の庭にもソ連が寄付したこの像があります。昔、イスラエルの左派の元外交官を日本にお招きしたことがあるのですが、「日本刀を見たい」と言われたので「あなたが見るべきなのは鋤だ」と言ったら笑っていました。この預言の言葉はとてもよく知られています。

■東の国からの「占い師」

では6節からあとも読み進めてみましょう。

2:5 ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。

2:6 あなたはあなたの民ヤコブの家を捨てられた。これは彼らが東の国からの占い師をもって満たし、ペリシテびとのように占い者となり、外国人と同盟を結んだからである。

2:7 彼らの国には金銀が満ち、その財宝は限りない。また彼らの国には馬が満ち、その戦車も限りない。

2:8 また彼らの国には偶像が満ち、彼らはその手のわざを拝み、その指で作ったものを拝む。

2:9 こうして人はかがめられ、人々は低くされる。どうか彼らをおゆるしにならぬように。

5節はイスラエルに向けた呼びかけです。ところが、6節になると「あなた」は神に変わり、イスラエルは「彼ら」とされます。こうして急に話の方向や主体が入れ替わるのが、イザヤ書の特徴で、これを正しく読み解くだけでも簡単ではありません。

7・8節の「彼らの国」も、イスラエルなのか諸国なのか微妙です。大筋では、どちらでも似た意味ですが、イザヤ書はこうも解釈が難しく、ヘブライ語のネイティブスピーカーでさえも理解するのは容易ではありません。それでも愛読者がいるのは、イザヤ書が不思議な魅力を持っているからです。

「東の国からの占い師」は、翻訳が分かれているところで、原語は「東からのもの」というほどの意味で、また、「外国人と手を結んだ」も「外国人の子供が手を打つ」という意味で、これも意味不明です。しかし、言っている意味は、要するに外国の風習が入っているということなのです。

最初に朗読した個所を思い出して下さい。確かにイスラエルもエルサレムも落ちぶれていましたが、そこには輝かしい未来が約束されていました。これと同じ流れの預言は、ゼカリヤ書8章の最後にも見られます。10人の異邦人が1人のユダヤ人の衣のすそをつかまえて、主の言葉を聞くために一緒に行こうとする、というものです。

ところが、エルサレムに諸国民が神の言葉を習いに来るはずなのに、イザヤの時代の約束の民は、逆に異教の神々、占いをまねているのです。そして真の神に頼らず、金銀や馬、戦車に頼りました。これはいけません。

■主の山は高くなければいけない

もろもろの山より高いはずのイスラエルは、他の山々より低くなっています。2:9でイザヤは「こうして人はかがめられ、人々は低くされる」と言っていますが、これは神が彼らを低めているのではありません。彼らが自ら自分たちを低く評価しているのです。

これはイスラエルだけでなく、教会に対する警告でもあります。私たちは、特に日本においてはたった1%の超少数派です。ですから「この世のもの」を取り入れて、何とか人並みにやっていこうと考えるのですが、これはいけません。これがあかりを枡の下に置く(マタイ5:15)行為なのです。私たちは光を燭台の上に置いて、私たちの周囲の世界を照らさなければなりません。私たちは現在の社会では本当に何の役にも立たないような存在ですが、実は日本全体の運命が私たちにかかっているのです。

イスラエルのために祈り活動している私たちは、今日朗読したように「シオンから律法が出る」日が来るのを信じ、それを待ち望んでいるのです。

主のみ言葉を聞くことのききん(アモス8:11)が起こる時、私たちの持っている光はいよいろ輝き、人々はそれに殺到します。私たちはその日に備えなければならないのです。今の時代に、どんなに私たちが小さく見えても、神のご計画が変わることはありません。神のご計画の成就に向けて、一緒に歩んで行きましょう。