2019年9月メッセージ「ヘブル人への手紙―旧約時代の”福音”」

2019年9月28日  ヘブル人への手紙―旧約時代の「福音」  講師:石井田 直二

ヘブル人への手紙1章:1節~2節

1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、

1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。

■手紙の宛先の重要性

ある教会指導者が、手紙を書いたと想像して下さい。洗礼を受けたばかりの有能な青年には「聖書をしっかり学びなさい。たえず祈りを深めて、他の人を教えられるようになりなさい」と書きました。

一方、死の床にあり余命2ヶ月の人には「あなたは救いにあずかったことを感謝して、残りの日々を送りなさい。主の恵みは十分です」と書きました。

もし、この手紙が逆に配達されたらどうなるでしょう。若い人は怠けることになるし、死に直面した人は絶望すると思います。

これは単なる冗談ではありません。実際にこれと同じ性質のことが起こったのです。ガラテヤ書は、異邦人クリスチャンで、ユダヤ人になりたいと考えている人々に宛てて書かれました。ところが、教会の人々はこれをイエスを信じたユダヤ人信徒に適用したのです。そして彼らに「ユダヤ人をやめなさい」と教えたのです。

この間違いを「発見」した人の一人が、私たちが敬愛するヨセフ・シュラム師です。わかってみれば、とても簡単な話ですが、彼は大反対に遭いました。でも、今日では多くの人々がその見解を受け入れています。パウロの一貫した見解は「ユダヤ人はユダヤ人であり続け、異邦人は異邦人であり続ける」というものだからです。

■この手紙の宛先は?

では、ヘブル書は誰に向かって書かれたのでしょうか。いくつかのヒントを見てみましょう。まず、1章の天使とキリストの比較から始まります。たぶん、皆様の中で天使とキリストを比較して、天使が重要だと考えている人などおられないでしょう。でも、最も重要な書き出しの部分で、この手紙の著者がそれを持ち出しているのは、それが読者にとっては大問題だったからなのです。2章では「そうでないと、押し流されてしまう」と書かれています。彼らはほとんど「押し流され」て、天使礼拝の方向に行きかけていました。天使礼拝は、ユダヤ教に中にあった見解です。

そして、この手紙の読者は、ユダヤ教のことに精通していましたが、不思議なことに「神殿」「宮」という言葉が使われず「幕屋」が使われます。それはたぶん、読者が腐敗した神殿祭儀と祭司制を忌み嫌っていたからだと思われます。

さらに、10章の後半を読むと、読者の人々は昔、かなりの迫害に遭い、財産さえも失っていたことがわかります。彼らは十字架の後すぐに信じ、ずっと熱心に信仰を保ち続けて来た人たちでしたが、なぜか確信を徐々に失いつつあったのです。

昔は熱心だったのに、信仰がマンネリ化して弱ってくるというのは、ありがちなことです。そんな時、この書を読んでみると、何かヒントが見つかるでしょう。

ただし、この手紙がヘブル人=ユダヤ人に宛てて書かれていることには注意が必要です。たとえば、2:16には、キリストが「アブラハムの子孫」を助けたと書いてあります。当然、ここでは異邦人が無視されています。そこで、たとえばローマ書4章などをもとに、アブラハムの信仰の足跡をふむ私たちも、そこに加えられていることを、補って読まなければなりません。これは私たちにとっては大きな問題点です。

■旧約の「福音」とは?

さて、ヘブル書の3~4章には「安息に入る」という主題が登場します。これは、ヘブル書における重要な「序論」です。

4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。

4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。

「安息に入る」というと、ただ単に仕事を休めばいいように思われがちですが、そうではありません。安息日は「聖なる日」であり、敬虔な人々は沐浴して体を清め、晴れ着を着てこの日を迎えます。これは、ユダヤ人なら誰でも知っていることなので、あえて説明されていません。要するに、罪のあるままでは真の安息には入れません。私たちにとって衝撃的なのは、2節の「彼らと同じく」という箇所です。何と、旧約の人々は「福音」を聞いていたのでしょうか?

この文意は、明らかに同じ「福音」つまり安息への道が旧約の人々の前にも、新約の私たちの前にも開かれていて、私たちも努力しないと入れてもらえない、という意味です。これは衝撃的です。私たちも「努力」しないといけないのでしょうか。

彼らは6章にあるように、初歩にとどまっていたのでした。人間、同じことばかり学び続けていると、だんだん慣れっこになって意味を考えなくなってしまいます。それだけではありません。彼らは希望を失いかけていました。主が再臨されると聞いていたのに、何十年たっても何も起こらなかったからです。そこで彼らは元のユダヤ教に戻りかけていたのでした。

■手紙の著者が勧める「堅い食物」

彼らは人から「神の言葉の初歩」(5:12)を教えてもらわなければならない状態でした。そんな状態の人々に、手紙の著者が「神の許しを得て」(6:3)勧めているのは、もっとハイレベルの真理、奥義でした。それを著者は渾身の力を込めて書いているのです。

安息への道は、神が厳しく見張っているので、少しでも罪のある者は入れません。「しかし、皆さんがすでに信じているイエスは、実はメルキゼデクに等しい大祭司であり、だから皆さんは安息に入る希望を捨ててはいけない」というのが、6章後半から展開されている、この手紙の「本論」です。

イエスがメルキゼデクに等しい祭司だという奥義は、読者にとっては非常に関心がある事柄でした。彼らはみな、罪や穢れに関心を寄せていましたが、それを清めるはずの神殿が穢れているので、とても困っていたからです。

■革命的な新しい教え

メシアの型として最もおなじみの人物はダビデです。それは新約聖書のあちこちに登場しますが、不思議なことに「なぜダビデがメシアの型なのか」という説明は一切ありません。なぜでしょうか。それは、それが「自明」のことだったからです。皆さんは日本人の友人に手紙を書く場合「日の丸を見て感動しました」と書けば十分です。「日本の国旗は日の丸と言い、白地に赤い丸が入ったものです」などと書く必要はありません。

ところが、メルキゼデクが大祭司メシアの型であるという話は、新約聖書の中に、ヘブル書以外には一度も出て来ません。しかし、ヘブル書の説明は非常に詳しいのです。これは、この手紙の著者が、読者の全く知らない情報を説いていたことを示しています。これは、革命的な教えでした。著者は、読者を励ますために、新しい教えを説いたのです。

■ヘブル書を読んでみよう

さて、この手紙の結論は「大祭司イエスが私たちを罪から清めてくださる」ということですが、それは私たちが、すでによく知っていることです。

この手紙は、私たちの知らないことを論拠にして、私たちのよく知っていることが論証されているのです。これはちょうど、無線工学でスマホの仕組みを説明した本のようなものでしょう。書いてあることを理解しなくても、スマホが使えることに変わりはありません。でも、無線工学の専門書を読めば、普段使っているスマホが、どんなすばらしい技術に支えられているかを知って感動できます。

ヘブル書も同じで「イエス様を信じれば罪が赦されます」という、どこの教会でも教えていることに、すごい背景があることがわかって感動できるのです。

今日はヘブル書を読む「ヒント」を、いくつかお教えしました。ぜひとも家でこの手紙を読んでみて下さい。きっと新しい発見があるはずです。