2019年11月メッセージ「シムハット・トーラーの祭」

2019年11月2日  シムハット・トーラーの祭   講師:石井田 直二

2:2「行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われる、わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地でわたしに従ったことを覚えている。(エレミヤ2:2)

10月は、イスラエルでは秋の祭のシーズンでしたが、その最後となる「シムハット・トーラー」という祭が21日に祝われました。今日はそのお話をさせていただきます。

この祭は、イスラエルとそれ以外の離散地では日が1日だけ違うのですが、祭の意味は同じです。ユダヤ人たちは、安息日ごとにモーセ5書(トーラー Pentateuch)を少しずつ朗読し、1年かけて読み終えます。その1つのサイクルが終り、次のサイクルが始まることをお祝いするのがこの祭です。

一昨年から今年の夏まで、神戸の集会には若いユダヤ人女性が来ていたのですが、彼女の発案で「伝道の書」を学びました。そして、何か月かかけて学びを終えると、彼女はとても喜んで「終わった!」と言って記念写真を撮ったのを覚えています。本当は、お菓子等を出すべきだったのでしょうが、とにかく、ユダヤ人たちは、無事に聖書の学びを終えると、お祝いをする風習があるようです。

■トーラーの巻物

ユダヤ人たちが朗読する正式のトーラーは、けっこう厚い羊皮紙に書かれている巻物で、とても大きなものです。ここから「虎の巻」という言葉が出来たという俗説がありますが、まあ、トーラーには重要なことが書かれているので「虎の巻」みたいなものですね。

しかし、巻物というのは、とても扱いにくいもので、私たちが持っている聖書のように簡単に「はい、申命記22章を開けて下さい」というわけにはいきません。そのページになるまで、ぐるぐる巻き取って行かないといけないのです。それだけではありません。何章何節という番号が書いてあるわけではないので、聖書を全部、ほとんど暗唱するぐらい覚えていない限り、途中を見てもどっちの方向に巻いたらいいのかさえわかりません。ですから、毎週きちんと順に朗読をするのは最も簡単な方法で、前週に終わった場所から読み始めればいいのです。

でも、全部が読み終わった時が問題です。長い時間をかけて、延々と最初まで巻き戻さなければならないのです。ユダヤ人は何でも祭にするので、これを祭にしたのが、シムハット・トーラーなのです。この日は、トーラーの申命記の最後の1章を読んだ後、全部巻き戻して、創世記の最初の1章を朗読します。

しかし、実際には、巻き戻すのを待っている時間を節約するために、トーラーの巻物を2巻準備しておいて、あらかじめ巻き戻しておいて時間を節約することが多いようです。

■トーラーの喜び

さて、「シムハット・トーラー」は「律法の喜び」という意味です。「律法歓喜祭」とも訳されます。実際、映像を見ていただけばわかりますが、この日は大変な喜びでお祭り騒ぎをします。みんながシナゴグの中で踊るだけでなく、町に繰り出して、トーラーの巻物をかついでワイワイ言って踊りながら喜びを表現するのです。

ユダヤ人にとって、トーラーの巻物は非常に聖なるものですが、それは喜びの対象でもあります。長年、トーラーの巻物が無かった共同体に、巻物が奉献される時の喜びは大変なもので、老いも若きもみな涙を流して喜ぶそうです。

なぜ、トーラーがそんなに「喜び」なのでしょうか。これが今日の本題です。トーラーはモーセ5書ですから、皆様もすでに内容はだいたいご存じだと思います。今年は、ユダ・バハナ先生が「ユダヤ人のデボーション」という題で語っていただきましたが、モーセ5書がなぜそんなに重要なのか、納得できた人は少なかったのではないでしょうか。

「私たちは新約聖書を持っているのに、今さら旧約聖書なんか学んでも意味がない」と思われるかもしれません。しかし、みなさんは、新約聖書の言葉を、ユダヤ人と同様に、あるいはそれ以上の「喜び」によって読んでおられるでしょうか。

■学びは「苦行」ではない

毎日、時間を割いて聖書を読むのはいいことではありますが、「自分がやりたくないことをやって、時間を主のために犠牲にすれば、主は報いてくださる」という考えは適切ではありません。神社に行くと「百度石」というのがあって、そこから拝殿まで100往復すると、願いが叶うという考え方があります。犠牲を払えば神仏が願いを叶えてくれるという発想です。それと同様に、聖書を読むという行為の呪術的効力に期待しているのでは、主はあまりお喜びにならないでしょう。

ユダヤ人の発想は全く逆で「聖書を学ぶことは無上の喜び」です。断食をして身を悩ます時は、聖書を読むなどという「楽しい」ことをするのはもってのほかだと考えます。とはいえ、ユダヤ人の中にもトーラーの学びが嫌いな人もいます。ですから、こんなジョークもあります。「クリスチャンの場合は、善人は天国へ、悪人は地獄に行くが、ユダヤ人は死んだあとに行くのはみんな同じ所だ。それは永遠のトーラーの学びである。義人にはこれ以上に楽しいことはないが、悪人にはこれ以上に苦しいことはない」という話もあります。

というわけで、ユダヤ人たちは、聖書を「楽しみ」で読むことはわかりましたが、それにしても、私たちにとっては退屈とも思える、あのモーセ5書が、何でそんなに喜び楽しめるのでしょうか。トーラーの巻物までかついで踊りたくなるのはなぜでしょうか。今一つわからないですよね。

■イスラエルは神の花嫁

その秘密は、シムハット・トーラーの式次第を学ぶと、何となく見えて来ます。この祭では、トーラーの最後と最初を読むのですが、最後を読む人を、ハタン・トーラー、最初を読む人をハタン・ベレシートと言います。その意味は「トーラーの花婿」、そして「創世記の花婿」です。そうです、「花婿」なのです。いったい花嫁はどこにいるの?、と思ってしまいますが、ここに重要な秘密が隠されています。

今日、朗読したエレミヤ書2:2で主は「わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地でわたしに従ったことを覚えている」と言われます。イスラエルの民は神の花嫁なのです。そして、荒野で、種まかぬ地で、毎日毎日奇跡的に食事を与えられたその時は、神との「ハネムーン」だったのです。

皆さんはユダヤ人が結婚する時に、結婚契約書「ケトゥバー」に署名することをご存じでしょうか。きれいな絵がついていて、それはたいてい夫婦の寝室に額に入れて飾ってあります。神とイスラエルの結婚の時にも、結婚契約書が作られました。それがトーラーなのです。

人間の結婚契約書には離婚の条項が含まれていて、それは重要項目なのですが、神と人との結婚契約書には離婚条項はありません。この契約は「永遠」なのです。イスラエルの民は、律法に従えば大きな祝福が与えられ、仮に律法に違反しても、応分の呪いは受けるものの、ホセア書に出て来る不貞の妻ゴメルのように、神はあくまでイスラエルを愛し続けて下さるのです。そんな忠実な神との結婚契約書だと考えれば、それをユダヤ人が抱いて踊るのも理解できますね。

でも、この結婚契約には重大な欠陥がありました。それは、ユダヤ人たちが神に逆らってばかりいるので、神は契約に従っている限り、呪いしか下せないのです。せっかく結婚した妻に、呪いと死ばかりを与えるなんて、そんなこと神様はしたくありません。

■エレミヤの語る「新しい契約」

そこで、同じエレミヤ書の31章を開けてみましょう。そこに解決策が示されていました。

31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。

31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。

31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。

31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

主は「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」と宣言されるのです。この契約のどこがそんなに「新しい」のでしょうか。それは、彼らの心を変える契約的責任が、神の側に移行する、という点なのです。しかし、この契約はまだ完全には成就していません。まだヨセフ・シュラム先生はじめ、多くの教師たちが「あなたは主を知りなさい」と兄弟や隣人に教えているわけですから、これは未完成です。

でも、たとえ未完成でも、この契約が成立した瞬間に、正しい心を与える責任が神に移行します。聖霊を与えて、民を律法に従わせる責任は、新しい契約においては神の側にあるのです。これは、不動産の契約で言えば「現状有姿」(げんじょうゆうし:隠れた欠陥があったとしても、それを含めて買い取る契約。売り手は不動産の欠陥について補修・補償する責任を負わない)という契約で、問題解決の責任が売り手から買い手に移行するのです。これは画期的です。

■キリストはそれを成就した!

では、マタイ26:26~28を読んでみましょう。

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。

26:27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。

26:28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

この時、十字架を通じてその新しい契約が成就したのでした。そして私たちにとってもっと重要なのは、この契約に参加する道が、ユダヤ人だけでなく異邦人にも開かれたことなのです。異邦人である私たちも、キリストの「花嫁」とされてこの結婚契約に参加することができました。(エペソ2:11-13)

この新しい契約と、ユダヤ人が喜んでいるトーラーによる契約と、どっちが強力なのでしょうか。もちろん新しい契約ですよね。皆さんが手にしている新約聖書は、旧約聖書よりもはるかに強力な「結婚契約書」なのです。

そこで最後にお勧めです。まだこの「結婚契約」に入っていない皆様、ぜひともキリストを信じてバプテスマを受け、この契約に入っていただきたいと思います。契約せずに、いくら話を聞いていても役には立ちません。キリストを魂の「夫」として、今すぐ受け入れるようにお勧めします。

そして、すでに信じてこの契約に参加している皆様にお勧めします。皆さんは聖書を読む時に「喜んで」読んでおられますでしょうか。新約聖書は神様からの「ラブレター」であり「結婚契約書」です。ユダヤ人たちの「トーラーを持って踊る」という精神は、私たちクリスチャンも多少は学ぶべきでしょう。もちろん、ユダヤ人がやっているみたいに、新約聖書を持って市ヶ谷の駅前で、みんなで通ることまではお勧めしませんが…。