2019年3月メッセージ「謎の人物エノク」

■日時2019年3月16日(日) テーマ:謎の人物エノク

今日は、アダムから七代目に当たるエノクという人物について学んでみましょう。聖書を順に学ぶ場合、アダムとエバ、カインとアベルを学ぶと、次はノアの洪水に飛ぶのですが、それまでにエノクという人物がいたことを忘れてはいけません。

■聖書に登場するエノク

エノクは、創世記5:21-24に登場し、新約聖書ではヘブル11:5、ユダ書14に登場します。たった3回しか登場しないのですが、それでも彼は洪水前の時代(良心の時代とも言われる)に登場する「重要人物」なのです。

エノクは「従う」という意味で、実は同じ名前を持った人物たちが創4:19、創世記46:9(ハノク)、創世記25:4(ヘノク)にも登場します。昔は流行った名前のようですが、それ以後は、この名前は流行らなくなったようで、もう登場しません。

さて、エノクに関する創世記の記述を見ましょう。

5:21 エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。

5:22 エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。

5:23 エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。

5:24 エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。

とてもシンプルです。彼は神と共に300年間も歩んだので、神が彼を「取られた」と書いてあります。なぜ神は彼を「取られた」のでしょうか。普通に考えると、良いことをしたら、ご褒美に長生きをさせてあげる、というのが妥当なように思いますが、なぜか神はエノクを取られました。

他の人は「死んだ」と書かれているのに、エノクは「取られた」と書かれているのは、天に上げられたのだと多くの人は考えます。ヘブル11:5は「死を見ないように天に移された」と書かれています。彼はどうも永遠の命を得たようなのです。

ちなみに、聖書にはもう一人だけ、死んでいない人が登場します。それはエリヤです。彼は列王記2:11で、後継者のエリシャの前で火の車に乗って天に上げられました。

■ユダ書の不思議な記述

次にエノクが最後に登場するユダ書を読んでみましょう。

14 アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。

15 それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。

これは奇妙な記述です。エノクはいつこんな預言をしたのでしょうか。そして、ユダ書を書いたユダは、どうしてそんな預言を知ったのでしょう。よく読むと、このユダ書には奇妙なことが数多く登場します。6節には、神に背いた御使いたちが、さばきの日までしばりつけられている、と書かれています。また、9節には天使ミカエルがモーセの死体を悪魔と争った、書かれています。これらの情報は、私たちの持っている聖書にはありあせんが、実は「エノク書」というユダヤ黙示文学に登場するのです。

■ユダヤ黙示文学で重視されるエノク

ユダヤ文献の一つに、エノク書という書物があります。この書によると、エノクは重要人物で、天に上げられて、神の近くまで行って世界の秘密を教えられたというのです。エノクは天使たちを支配する立場に立っているとする説もあります。エノク書は、悪人に対する裁きの様子が記されています。また、エノク書は数義を非常に重視しており、複雑なカレンダーについて述べています。

そのエノク書を引用して、ユダは手紙を書きました。ところが、エノク書は聖書正典から外され、ユダ書の方は正典に残されたのです。これはとても不思議な聖霊の導きです。たぶん、聖霊はエノク書のすべてを信じる必要は無いが、その中には「一面の真理がある」と見ておられるのでしょう。

ユダ書にある「アダムから数えて七代目」は、創世記だけ見ていると気付かない事実です。七は聖書における完全数の一つです。創造の七日目に世界は完成して神が休まれたのですから、アダムから七代目に神の心にかなう人が現れたことも、象徴的意味があります。

そして、彼の寿命が365年だったことも、当然のことながら意味があります。これは1年の日数です。一方、エノクの寿命が短かった反動なのか、子供のメトセラは最長寿でノアの洪水まで生きました。

エノク書、あるいはユダ書に描かれているエノクは、悪人を断罪する役回りです。主は「無数の聖徒たち」を率いて悪人を裁かれるのですが、その裁く義人の筆頭がエノクなのです。

■洪水以前に義人エノクがいた意味

さて、ここからが今日の本題です。洪水以前の時代に義人エノクが存在した意味は何なのでしょうか。アダムから七代にわたる間、人類はかなり数を増したと思います。系図を見ると嫡子のほかに男子と女子を生んだ、となっていますが、この男子や女子は複数形なので、最低でも5人は生んだことになります。現在の超正統派ユダヤ人のように、10人くらいだったのでしょうか。とすれば、一代で人口が5倍に増えるので、エノクまで六世代目で5の6乗、つまり1万5千人になります。ノアまであと3代で、その125倍になるので、人口は百万人近くになっていたことでしょう。

それだけの数の人間がいた中で、神と共に歩んだ義人は、どれだけいたでしょうか。最初は、アベル、次にエノク、そしてノア。この3人しかいなかったのです。

彼らがいたおかげで、神の人間創造は完全な失敗を免れました。これは良いことです。しかし、百万人も人間を創って、そのうち基準に合格するのが3人しかいない、というのは、あまりに「歩留まり」(製造品のうちでの良品の割合)が悪すぎました。だから神は人を創ったことを悔いた(創世記6:6)のでした。

昔、私は高校生時代に英語が大の苦手でした。その頃は英語が「リーダー」(読解)と「グラマー」(英文法)に分かれていたのですが、だいたい、グラマーは面白くありません。そこに、大学を出たばかりの若い先生が来て、全然面白くない教え方をしたのです。それだけではありません。中間試験で非常に難しい問題を出したので、平均点が100点満点で20点くらい、最高点が40点くらいだったのです。そこで、何が起こったと思いますか? 父兄が「試験が難しすぎる」と苦情を言ったのでした。そこで先生が謝る羽目になり、次回からテストはうんと簡単になりました。

しかし、ここでもし、帰国子女とか特別な事情も無く、先生の授業をちゃんと聞いて80点、90点を取る生徒が何人かいたらどうなるでしょうか。先生は「こういう生徒がいる」と父兄に言い、他の生徒はみんな怠けていたことを恥じ入る結果になるでしょう。つまり、数人の出来の良い生徒がいることが、他の出来の悪い人々を罪に定める結果を招くのです。

■善人は悪人を断罪する

そこで、エノクの存在が悪人を断罪するという、エノク書、あるいはユダ書の思想は、まさにそのとおりであることがわかります。

良心の時代にいた3人の義人、アベル、エノク、ノアはいずれも義人であり、確かに自分は救いました。しかし、彼らの正しさは他の人々を救う方向ではなく、他の人々を断罪する結果になったのです。アベルが義人でなければ、カインは殺人の罪を犯さずに済んだでしょう。そしてノアはどうでしょうか。ノアの義は、彼の家族にしか役立ちませんでした。

洪水前の時代の義人たちは一種の「天才」でした。当時は聖書もなく、真の神を教えてくれる教師も無かったのに、彼らは天地自然にあらわれた神の性質を見て悟ったのです。ローマ1:19~21にあるように、彼らはまさに天地創造このかた示された「神の永遠の力と神性」、つまり「一般啓示」によって神を悟ったのでした。そして、アベル、エノク、ノアの存在によって、全ての人は神の前に「弁解の余地がない」状態に追い込まれたのです。

もし、この時代が今も続いていたとすれば、我々には「万に一つ」くらいしか勝ち目はありません。おそらく、世界の人々の中で神のもとに帰れるのは、ほんの一握りの霊的エリートだけ。そのエリートがいるおかげで、他の凡人は全員、劣等生として地獄に落とされることになるのです。つまり、簡単に言うと、義人がいることが、周囲の凡人に「害」をもたらすのです。(これは一種のぼやきで、当然の報いというべきではあるのですが。)

クラスでみんなが宿題ができずに苦しんでいるのに、一人だけ全部やって来る優等生がいたらどうでしょうか。みんな、その優等生を「いや~なやつだ」と思わないでしょうか。みんなが頑張っても営業目標を達成できないのに、たった一人だけ、超人的にいつも営業目標を達成する営業マンがいたら、みんなに恨まれないでしょうか。それと同じ原理です。

■義人が祝福をもたらす新原理

ところが、旧約(アブラハム)から新約(キリスト)へと続く流れの中で、この原理は大きく変わっています。それは、義人がいることが、他の人々にとって「益」になるという原理です。この原理は最初にアブラハムに語られました。アブラハムのすばらしい信仰によって、地上の全ての民族が祝福される、という計画が示されたのです。

アブラハムは彼の使命をよく理解していました。悪にまみれたソドムとゴモラの町が滅ぼされようとした時、彼は直ちに「待った」をかけたのです。息詰まる交渉の結果、彼が神から引き出したのは「正しい人が10人いれば町は滅ぼされない」という原理でした。これがどんなに革命的か、おわかりでしょうか。洪水以前は、正しい人(つまり霊的エリート)がいることが、周囲の悪人(つまりは凡人)に処罰をもたらしたのに、ここで初めて正しい人が周辺の人々に救いをもたらす、という原理が示されたのです。残念ながら、正しい人が10人もいなかったので、アブラハムの交渉はその時点では役立ちませんでしたが、この原理が示されたことは大きな収穫でした。

昔も今も、正しい人はほとんどいません。もし、正しい人の正しさが、その本人だけにしか役立たず、周囲の人々の悪さを際立たせるだけの結果に終わるなら、人類は破滅です。でも、もしも正しい人の正しさが周囲の人々にも及ぶなら、人類にも希望が出て来るのではないでしょうか。

アブラハムは10人で交渉をやめましたが、エレミヤ5:1を見ると、何と正しい人がたった1人でもいるだけで、聖都エルサレムが滅びを免れる、と書かれています。神は、ほんの少数の義人がいれば、町をも救われるのです。

■ひとりの義なる行為によって

この原理を究極まで進めたのが、新約聖書のメッセージです。パウロは「ひとりの義なる行為」で全世界の罪があがなわれる(ローマ5:18)という、驚くべき原理を解き明かしています。私たちは凡人であり、とてもエノクのような完璧な生き方はできませんが、さらに完全な義を実現されたキリストにあやかって、義としていただくことができるのです。

エノクは、ごほうびとして「死を見ないように天に移された」(ヘブル11:4)のでした。それは、彼を地上に生かしておいても、彼が堕落する危険性が高まるだけのことで、誰の役にも立たなかったことを示しています。これは彼の責任なのではなく、この時代は神が一人一人をその仕業と信仰に応じて扱う、という原理を定めておられたからです。

しかし、新約時代においては、私たち自身の義によるのではなく、キリストの義によって義とされる、という新原理が定められたのです。そこで、この原理によって義とされた私たちは、エノクのように、自分だけが天に上げられれば良いわけではありません。イエスは弟子たちのために神に祈っておられます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」(ヨハネ17:15)。私たちは、キリストの義にあずかる代わりに、この地上に残って、他の人々に義を分け与える、という使命を与えられているのです。

さて、今日のまとめです。まだキリストの恵みを受けていない人は、2つの道があることを知って下さい。一つは、エノクのように、天才的な努力で神に従う生き方をして、自分だけ義とされる道です。念のため言っておきますが、これは、とても難しくて凡人には達成不可能です。

もう一つは、キリストの義にあずかって、他の人々にもそれを分け与える道です。どちらでもどうぞご自由にお選び下さい。でも、もちろん、私がお勧めしたいのはキリストの義にあずかる道なのですが。